「考-3」以降の時間の経過は、出会いと別れの経緯でもあった。「考-3」の補論として書いた「地元大工さん・・」の当事者の方が、本年2月20日容態の急変で亡くなった。
発症からたったの一年の存命期間である。「悪性中皮腫」の怖さは発症から死亡までの期間が実に短いとは聞いてはいたもののこんなに身近に感じてしまうとは。周囲も「無念」さが残り、当人の「何で俺だけが・・」という叫びが聞こえる。今回の「考-4」はそんな無念さからの報告である。
2月20日、知人より「Mさんさっき亡くなったよ、行ってあげて」と電話がはいる。慌てて駆けつけ、奥さんから経緯を若干聞く。昨日は自宅に帰り、とは言っても寝台での帰還。(痛み止めのモルヒネ投与で幼児語を話していたようだ。)3〜4時間滞在し病院へ戻る。翌日、対面のベッドの方と話しているうちに、意識混濁に陥り、2時間後に不帰の人となる。医師は脳梗塞を主張し、解剖の承諾を迫っていると奥さんは言う。「これから親戚と相談の上決める」この段階で奥さんは既に、昨年来より交信のある名取医師より、この病気の特徴として、容態が急変し死亡するとの言葉を想起したそうだ。担当医は経験値のなさから事態を理解できなかったようである。解剖結果はやはり、脳梗塞ではなく、採りきれなかった癌細胞が内部で破裂したようである。既に肝臓にも転移していた。同室の対面の患者さんは、奥さんに「元気になった」と後から声を掛けてきたという、という事は、はためには急死するようにはとても見えなかったのだ。病院に伺うたびにMさんは「俺あと2年かな」と呟いていた。「最近食べれなくなった」「筋肉が落ちて、運動不足で歩けなくって車椅子で移動よ」等々、Mさんとの会話が懐かしいし、最後の方は8月に病院で手術痕を見せてくれた勢いは既になかった。何かあの8月の談話室での明るい日差しが、そしてMさんの「おれは皆より4日早く中皮腫を知っていた」という言葉が眩しい。この病気が怖いのは、見立てをする医者の不足を指摘しなければならない。今回の事例でもそうだが、文献では知ってはいても経験値がない以上、適切なる判断・説明が出来えてないのが現状のようである。今回執刀医は2回目の経験で、転移した内科の医者は始めてのケースで臨床体としてはよかったのだろうが・・。通常の放射線治療・抗がん剤投与が効かないとはいわれつつも、何かにすがりたい家族の思いをどうケアするかが問われている。通常の治療は患者にダメージを与え、かえって死期を早めるようでならない。今後、「死」を前提とした「心の問題」を考えなくてはいけないのかもしれない。Mさんの告別式には札幌より、昨年より交流のある一宮さんが駆けつけてくれました。一宮さんのご主人も4年前に中皮腫でなくなり、彼女は今、「アスベスト疾患・患者と家族の会北海道支部」準備会の代表として頑張っている方。Mさんの御通夜、葬儀では故人の死因がアスベストである事が参会者の方には公表されました。傍ら一宮さんは4年前の自分を重ねハンカチで涙ぐんでいました。(合掌)松橋さんの今回の死因が「中皮腫」と葬儀委員長が言う背景には、奥様の「無念」さを感じます。常々マスコミには言わないでといわれていたからで、「この事実を世間に公表して」との示唆と理解しました。
4月22日「アスベスト疾患・患者と家族の会北海道支部」発足なる
松橋さんの49日が終わり、札幌での発会式に帯広より二人参加。会の受付には一宮さんの娘さん、やはり父上を亡くした娘さんが健気に、そして明るく仕事をこなしていました。マスコミ各社を前に、大島先生の司会で、会を代表し一宮さんが涙ぐみ言葉をつまらせながらもしっかりと北海道支部が立ち上がったことを宣言しました。一人で始め、娘さんの支えのもと運動が実った瞬間であり、新たな一歩の始まりです。来賓の片岡さん(関西労働者安全センター事務局次長)は「やっていることは間違っていないので、このまままっすぐやって欲しい、頑張ったら頑張っただけ、かえってくる」と。名取医師(中皮腫じん肺アスベストセンター)は「私が関ってから20年、当時はある特定の業種の人たちの病だった。現在は本当に誰が発症してもおかしくない状況です。医学的完治治療が確立されてない以上、患者・家族の心のケアを考えていかなくては成らないはずです」と語ってくださいました。
演壇の一角には松橋さんも座り、各地区の方からは今までの軌跡を、アスベストへの思い(恨み)を語ってもらいました。遠くは函館、長万部、苫小牧、そして帯広から遺族・家族の方が駆けつけ、今回の発足式を共有した次第です。
今回の特記すべきは、職業曝露ではなく、環境曝露によって発症から5ヶ月で奥様をなくしたSさん。Sさんの職業は建設帳場でお話を聞く限り本当に家族を省みることなく稼いだそうで、その結果こんなことに成るなんてと、搾り出すように話してくれました。この事実は今後大いに考えられる事例で、現在軽く今回の問題を対岸の火事のごとく語っている人たちに対する警告以外の何者でもありません。本当に自己防衛仕様のない無防備空間に私たちが置かれているとの証左でしょう。発症から死亡までの平均年が15ヶ月といわれていますが、今回の語らいでは2〜5ヶ月と非常に短い事例が本当にあることを実感いたしました。このことは発症の由来がいまだに分かっていないのと、環境曝露が今回3例あるように、物凄い個人差が曝露にはあるということです。そして、ショックから立ち直り、申請手続き等が普通の方だととても一人では無理だという事であります。潜伏期間が30〜40年ということは、明らかに過去への記憶の旅を個人的に強いられるからです。「患者と家族の会」は、今後課題として各地区の方との連携を強め、今後何らかの形で顕在化してくる被災者・遺族・家族を精神的にサポートしていく受け皿であり、警告を発し続ける発信基地でもあると考えます。
このページを書いている最中、十勝で2人目となる患者の方が先月亡くなったようです。
松橋さんと同じ建設業の親方です。詳細がまだ分かりませんので、べつな機会に報告したいと思います。
過去への検証作業は困難を極める事かと思われますが、故人への思いと、故人が今まで生きてきた生き方を固く信じて行動を起こすべきです。当然過去のある面と直面するわけですが、それらを避けて通る訳にはいきません。周辺の人たちを巻き込まなければ事は成就しないことも事実ですから、如何に今回の問題が社会的影響力の強いものか再認識です。 |